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10月15日の日本経済新聞のスポーツコラム「フットボールの熱源」に『「規格外の選手」出ない訳』というタイトルの記事がありました。日本人の国民性・教育・指導者として・野球とサッカーの違いなどさまざまなことを考えさせられる記事でした。ボストンの前田さんから前回のブログに関して、「野球を通して、個人の自分や、皆の中の自分を、育てていってほしいと願います。」とのコメントをいただきましたが、そのことにも関係していると思われるような記事でした。抜粋させていただくと、 『鹿島の高島雄大・事業部担当部長は毎夏、ブラジルのリオデジャネイロで開かれている日伯友好カップ(15歳以下の大会)に出場する日本のチームに帯同し、大会運営も手伝っている。そこで毎回、同じ疑問に尽き当たるという。日本人選手は前が詰まると1対1の勝負を挑まず、安易にボールを後方へ下げてしまう。ブラジル人は強引にドリブルで仕掛けていく、「この差は何?」と高島さんは思い悩む。それは、指導、教育の違いなのだろう。日本ではドリブルでボールを失うと、「なぜそんな勝手なことをするんだ」ととがめがちだ。大人の規制が働いて、子供たちは自我を抑えてプレーするようになる。ブラジルなら「惜しかったなあ。もう1度やってみたら」と果敢な勝負を奨励する。だから、相手に向かっていくスピリットがはぐくまれる。高島さんは言う。「日本人はボールを奪われたときに申し訳ないと感じるが、ブラジル人は勝負せずに終わったときに申し訳ないと感じるのだと思う。教え方の違いがサッカー観、人生観の大きな開きを生んでいる。話は変わるが、Jリーグでは近年、“規格外”の選手が現れていない。「なぜ?」と関係者は思い悩んでいる。浦和の中村修三・強化本部長は話す。「我々がやんちゃな選手を取っていないからかもしれない」サッカーチームに限らず、日本の組織は管理しにくい人間を進んで受け入れはしない。「強引なプレーをする選手を、我が強すぎる、組織からはみ出しかねないという理由で、はじいてしまっているのかもしれない」と、ある関係者は言う。枠にはまりやすい人間ばかりをそろえ、強い自己主張を規制する。これでは、ときにはごり押しのプレーで局面を打破する選手は出てこない。』 ほぼ単一民族国家で島国な日本。人と違ったことをすれば打たれるか、後ろ指をさされる風潮があるように感じます。そんな日本では、「自分勝手」なドリブル突破が許されず、「自我」を抑えてプレーしなければならず、それがサッカーの世界で「規格外」の選手が生まれ難い理由なのか・・・。日本人には、「やはり野球の方が向いているのかな~」と思うのはこの辺りで、野球ではある程度のセオリーが決まっており、監督のサイン通り忠実にプレーをこなせば良い。これは日本人の得意とするところのような気がします。ヨーロッパや南米で野球がなかなか盛んにならないのはこの辺りの「自我」を抑えることが苦手で、みんな好き勝手にプレーしたいからなのか?とさえ思えてしまいます。ピッチャーは全て三振狙い、バッターはみんながホームラン狙いとか・・・。蛇足ですが、中南米では野球が盛んですが、子供の時から1球1球サインを送り、がんじがらめの野球をしているのが想像できないのは私だけでしょうか・・・。そんなノビノビ・力対力の勝負を子供たちにさせてみたいとは思いますが、そんなことしたら「何もサインも出さないんじゃ誰でも出来る!お前は必要ない!」と怒られるだろうな、きっと・・・。 ビーバーズ・ジュニアチームには「規格外」の選手たちが居ます。見逃しの三振が得意な規格外君の理由は、「いい球を待っていた!」。もう一人の規格外君のケースは、1アウトランナー1・3塁でバッターはその規格外君。サインを送る方は、「1塁ランナーを走らせてから打ってもらおう」と盗塁のサイン。ところが規格外君はそんなサインなどお構い無しにヒット。得点をあげて、チャンスも広げてくれたのだけれど・・・。違うケースでは、1点ビハインドのチャンスでノースリー。「1球待ってくれ」のサインもお構い無しに、誰が見てもボール球を見事に内野ゴロ。「どうした?」「いや~、打ちたかったから」「・・・」という規格外さ。このケースで「惜しかったなあ。次は必ず打てよ!」と言える少年野球の指導者が居るのだろうか・・・。私は基本的にはノースリーからでも「ピンポイントで狙っていけ!」という積極派だとは思っております。凡打しても「打ち損じか?」「ハイ、好きな球だったけど、打ち損じました」で終わりにする方ですが、状況によっての違いを理解させていないこちらが悪いのか・・・。 チームプレーと自分勝手なプレー。サッカーはこの区別が難しいスポーツだと思います。ドリブル突破が成功すれば果敢に勝負を挑んだからだと賞賛され、突破出来なければ自分勝手なプレーをするな!という結果論になってしまうのか?選手は一瞬の閃きで判断しなければならないし、周りの選手もそれを感じる必要がある。果敢なプレーとみなされるか・自分勝手なプレーとみなされるかは指導者によっても意見が分かれるところだと思います。だからこそ、サッカー界は指導者にライセンス制を敷き、指導方法などを下部組織から徹底しているような気がします。片や、野球界はどうかというと、狙うプレーは声を出して確認は出来るし、一瞬の閃きに頼るプレーも少ない。ある程度のセオリーが決まっていて、技術的なことも誰が教えても大差ないような気がします。そんな環境だから、私のような近所の野球好きが指導者としていられるのか?少年野球の指導者は子供たちが思い切って野球をやれる環境を作ってあげるのが大事なことだとつくづく思います。 コラムの後半に、『管理しにくい人間を進んで受け入れはしない。強引なプレーをする選手を、我が強すぎる、組織からはみ出しかねないという理由で、はじいてしまっているのかもしれない』とあります。ビーバーズの指導方針には「野球を通じて心身の練磨とスポーツマンシップを理解させる事に勤め、 規律を重んじる明朗な社会人としての基礎を育成し、次代を担う少年の健全育成を図ることを目的としています。」とあります。規律を大事にするがために生まれてこない「規格外」なのか?サッカー界では規律・チームプレーと規格外選手は相反するものなのか?ところで野球界で規格外といえば、清原選手や松坂投手が思い浮かびます。素質・体力も然ることながら、やはり勤勉さと努力が規格外選手を生むように感じます。やはり日本人にはサッカーより野球が向いているのでしょうか? 参照:日本経済新聞、10月16日、『フットボールの熱源 「規格外の選手でない訳」』
by beaverscoach
| 2008-10-16 20:20
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